「気付き」という言葉について考えてみた

最近というか、ここ4、5年前から「気付き」という言葉がよく使われます。古い人間として、やや違和感があり、自分ではあまり使わない言葉ですが、やっぱり気持ち悪いと思う人もいるようです。

当然ながら、気付くは動詞、気付きは名詞です。しかしながら、気付きは「気付いた事」という以上に、自分自身がその事柄を所有している意識が強い単語と考えます。つまり、気付いた上でその背景を理解し、その事柄を別のことにも活かせるという意味を示すために使われているのではないでしょうか。しかしながら、気付いて、理解して、解釈してということもみんな動詞です。動詞って単なるプロセス的にとらえられることもよくあります。「早く起きるのは大変です」「起きるのは当たり前だろう」、つまり、起きて会社に行くのは当然というプロセスの中の動作が「早く起きる」ことなのです。一方「早起きは大変です」となるとどうでしょう。やっぱり「当たり前だろう」と思うかもしれませんが、「早く起きること」自体が成果になっているニュアンスが若干あります。うがった見方をすれば、「早起きして遅刻しないで出社できたという成果があった」という心理があるのではないでしょうか。

つまり、何かが起これば「気付く」のは当たり前だし、そういう状況になったら誰でもできるだろう、やるだろうという考えがあります。一方「気付き」というのは、その人が気付き理解したという成果を強調していることなのです。何でも成果を求められる昨今、イメージとして成果っぽい言葉が頻繁に使われるのはよくわかります。

しかしながら、この「気付き」は自分の成果だけでなく、自分が所属する組織に対する貢献を、暗黙に示す言葉でもあると考えます。お店に注文したとき、商品がないとき、「お取り寄せましょうか」と聞かれますが、「お取り置きしましょうか」という言い方もよく言われます。前者は、お客の注文だから仕入れるのは当然というニュアンスもありますが、後者はお店として顧客の要望に応えましたという成果の強調が感じられます。名詞化することで、自分の成果となり、組織の成果となる。そうなれば、言葉は自然に根付き、となるわけです。

さらに、動詞は続きを求めます。「お客様のお言葉に気付きました」「で、何を気付いたの?それでどうしたの?」となります。ところが「お客様のお言葉に気付きがありました」となると、もちろん、それはどうなのと聞きたくなりますが、何となく完結感漂う言い方となり、あまり突っ込めない雰囲気を作っています。よく、「悟る」と「悟り」が引き合いにだされますが、「悟り」と言ってしまえばそれ以上突っ込めません。「気付き」と言ってしまう事で、ある種の遮断、つまり言葉のやり取りの遮断が発生します。何かを報告するときになるべく上司に突っ込まれないようにしたいという気持ちが「気付き」という言葉を引き出すのかもしれません。

気付きという言葉に違和感があるとしたら、そのときのコンテキスト(文脈)において、成果を暗黙的に強調しているからだと考えました。その上で、深堀を暗黙に否認する感覚を聞いた人にもたらします。本来は、気付くことによって、他のことに応用できるわけですが、気付きだけを強調すると、本当に応用しているのかという疑問も湧きます。そして、応用できないのなら、ほんとに気付いているのかという疑問にもつながります。そして、その確認を遮断するのです。少なくとも「気付き」は悪い言葉ではありませんが、その結果、何ができるのか、何ができたのかを同時に伝えることで、違和感はなくなるのではないでしょうか。