El Captainでdocdiff

以前、2つの文書の比較結果をカラーリングで示せるdocdiffのことをMavericks向けに書きました。その後、Yosemite向けにも書きました。このポストは、そのEl Captain版です。/usr/binディレクトリがルートレスの機能により利用できなくなったので、docdiff自身も/usr/local/binに配備されるようになっています。それに合わせてドキュメントを書き直します。

まず、インストールは以前と同様にgemを使います。すでにファイルが存在すると、上書きしていいかを聞かれるので、yで上書きをしてしまいます。

sudo gem install docdiff

これで、/usr/local/bin/docdiffがコマンドとして機能するようになります。そのほかのライブラリファイル群は正しい場所に入っているということで、気にしないで行きます。

さて、svnで使うには、パラメータの組み換えが必要です。そこで、/usr/local/binにdocdiffsvnを作ってそれを実行用にします。もちろん、viでもemacsでもご自由なエディタで編集してください。もし、/usr/local/binが作られていないのなら、mkdirコマンドで作ってください。

sudo nano /usr/local/bin/docdiffsvn

中身はこのように書きます。

#/bin/sh
/usr/local/bin/docdiff --format=tty $6 $7

そして、もちろん、アクセス権を設定しておきます。

sudo chmod a+x /usr/local/bin/docdiffsvn

こうすれば、以下のようにsvnコマンドを打ち込むときに、docdiffを使って比較を行います。最後のパラメータはファイル名です。

svn diff --diff-cmd=docdiffsvn -r PREV _any_file_name_

もし、パス(echo $PATH で確認できます)が、/usr/local/binに通っていないなどの場合には、上記のパラメータの1つを「–diff-cmd=/usr/local/bin/docdiffdvn」のように指定します。

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OS X Mavericksとdocdiff 0.5.0

単語単位での2つのファイルの相違点をカラー表示してくれるdocdiffは非常に重宝します。wdiffだと日本語がうまくいかないということで、rubyで作られているdocdiffを使っていますが、Mavericksにアップデートしたら動かなくなるとか、インストーラが以前はあったけど現在のシステムで動かないといろいろあり、困ってしまいました。ソースから動かす方法を、ほとんど自分の備忘録として書いておきます。

まず、githubにあるdocdiffのサイトから、ソース一式を「Download ZIP」ボタンでダウンロードします。Makeとかあるのだけど、Ver.1.8 onlyとあります。MavericksはVer.2.0がデフォルトです。それで、最低限の作業を考えた結果このような流れでできることが分かりました。ダウンロードしたファイルを展開したdocdiff-masterフォルダを基準に説明します。

  1. bin/docdiffを/usr/local/binにコピーする(あるいは/usr/binにコピー)
  2. libにある1フォルダ3ファイルを、Rubyのライブラリフォルダにコピーする

ライブラリフォルダとは、以下のパスになります。

/System/Library/Frameworks/Ruby.framework/Versions/2.0/usr/lib/ruby/2.0.0

これで、1でコピーした先にパスが通っていれば、docdiffコマンドとして稼働します。つまり、

docdiff --format=tty file1 file2

とすれば、カラーリングした結果でファイルの違いを文字単位で表示します。

なお、これをsvn上で使いたいので、次のようなことをしています。まず、上記、ダウンロードしたdocdiffファイルを/usr/local/binにコピーしたとして、/usr/binに以下のようなスクリプト「docdiff」を作ります。もちろん、実行権限を与えておきます。

#/bin/sh
/usr/local/bin/docdiff --format=tty $6 $7

こうすれば、svnでのコマンドで

svn diff -r PREV --diff-cmd=/usr/bin/docdiff file

とすることで、たとえば、こんな感じに見えます。このコマンドだと、現在のファイルとRevision 15のファイルを比べていて、赤は消えたもの、青は追加されたものです。黄色の代わりに緑になるという感じです。

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Mavericksから搭載されたiBooksのデータはどこに?

OS Xにやっと、標準のePubリーダが搭載されました。PDFも登録できます。iBooksを起動すると、iTunesにあるデータを引継ぐかどうかをたずねるので、引継ぐと、iTunesのライブラリから書籍データは消えます。ただし、デバイスへ同期する書籍の選択は、iTunes上で行います。書籍の購入もiBooksで行います。

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別に使い方が難しいわけではないでしょう。ePubの場合、ウインドウは広くなりますが、文字部分の幅は一定のところまでしか広がらないので、大画面に大きく表示できないのがちょっと残念ですが、あまりレイアウトを崩さないようにという意味なのでしょうか。縦方向には長ーくすることはできます。PDFはプレビューで表示しますが、PDFファイルとのリンクが切られたようなウインドウで表示されます。保存をしてみると、保存する先を指定するシートが表示されます。PDFを編集すると複製が作られるので、iBooksにあるものを編集すると、ファイル管理の手間が増えるので、原則として行わない方がいいでしょう。ちょっと重いというか、レスポンスが悪いときもありますが、十分に実用にはなっていると思います。

スクリーンショット 2013-10-23 2.54.21

さて、このiBookのデータはどこにあって、どのように運用すべきなのでしょうか?検索をかけて探したところ、以下のようなパスにありました。「BKAgentService」は、Book Agent Serviceというところでしょうか?

~/Library/Containers/com.apple.BKAgentService/Data/Documents/iBooks

つまり、「ライブラリ」の中です。PDFやePubをドラッグ&ドロップすると、ここにコピーされます。iBooksにはiTunesのようにデータフォルダの指定はできないので、事実上、自分のホームに書籍のデータがどんどん増えて行く事になります。見方を変えると、ここのディレクトリにあるコンテンツを見るアプリケーションという作り方もできるんじゃないかと思います。もちろん、iBooksとは異なる機能を持ったアプリケーションが作れます。たとえば、2冊、3冊同時に読めるリーダーなんて欲しいですよね。

この中のディレクトリを見てみると、こんな感じで、ePubファイルはZIP圧縮アーカイブが展開されてディレクトリとして保存されています。そのため、ほぼ全部、元ファイル名は保持されていません。一方、PDFは概ねもとファイルのファイル名を保持してそのままの形で残されています。また、ibooks拡張子のファイルも見られます。iBooks Authorの拡張子は.ibaであり、iBooks Authorから出力するのが.ibooksファイルです。ibooksファイルをダブルクリックすると、iBooksに読み込まれます。

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もちろん、このディレクトリはTime Machineでバックアップが取れます。従って基本的なバックアップはTime Machineでいいでしょう。しかしながら、購入したePubやPDFのファイルはここに残せばいいのかというと、結論としては別途バックアップを残した上でiBooksに読み込ませるのがいいと思われます。ePubは展開されていて元の状態にはなっていないので、元のファイルを残しておくのが何かと便利と思われます。もっとも、PDFだけなら同じなので別途残す必要はないかもしれません。だけども、「ライブラリ」の下にあるものは普段のファイル管理の作業では顕在化しないので、存在を忘れてしまう可能性もあります。やはりiBooksに読み込ませた後、どこかにバックアップも取っておくのが安全だと思います。

電子書籍が売れないとしたら、その理由は?

電子書籍問題の三部作、最後の記事です。今回は、取り次ぎは金融であるというお話です。出版流通での取次というシステムは、電子出版の注目とともに、より世間に知られることになりました。是非はともかく、これまで何十年の間、出版業界を支えていたのは事実です。

この話は、以前に出版を行う会社に居たときに聞いた話で、今は違っているかもしれませんが、大筋はそのままだと思います。その会社の話だけでなく、複数の会社でそうなっているというのを聞きました。出版社が書籍を出版し、取次に納品し、取次が書店に納品する、そして定価販売を義務づけられているけど、書店は自由に返品でき、それは出版社へも返品できるというのが原則でした。むかし、その原則にコンピュータ系ではおそらくただ1社アスキーだけが「返品不可」をやっていたのも記憶されます。しかし、普通は返品自由なので、書店にとってはリスクが低く、とりあえず注文するという気軽な発注にもつながります。

出版社にとっての出版から返品までのサイクルは、早く半年くらい、長くて1年あるいはそれ以上ということを聞いた事があります。今はもっと早いのかもしれません。このとき、驚くことに、出版時の納品によって、出版社は納品しただけの売り上げが立つらしいのです。そして、返品の度に買い取りになるのか、清算になるのか分かりませんが、取次に対しての支払いと、返品されてきた書籍の引き取りが発生します。つまり、出版直後はほんとうに読者の手に渡っていないのに出版社は売り上げになるという仕組みです。事実上、取次が出版社に対して金融しているのと変わらないという気がしますが、どうでしょう?

従って、出版を始めたばかりの出版社は、出だしがきわめて好調です。全部売れるからです(笑)。しかし、しばらくすると、返品の山で実は売り上げていないことが分かります。そうなると、ともかく、タイトル数を増やして突っ込むことで、売り上げを確保するという悪循環が始まるかもしれません。しかし、返品がどっさりとは言え、私の感覚だと、5〜10冊のうち1冊が大きく売れて、残りが損益分岐点程度なら、出版社は十分黒字になると思っています。全部が損益分岐点では人件費が出ません。ですが、時々ヒットを出すくらいでもうまく回るようです。返品があっても、またじわじわ売れるかもしれないし、ともかく、時々ヒットを打つくらいの感じでなんとか行くのです。

電子書籍は売れないと言われます。電子書籍は、まさに売れた分しかカウントされないので、過去の書籍に比べて売れている感じがしないのかもしれません。しかしながら、実は取次による金融システムによって、紙の書籍は売れているという錯覚に陥っている可能性も否定できません。出版後1ヶ月程度で、売れているかどうかは紙の書籍の場合、なかなか分かりません。最近は書店が減っているので大分分かるのかもしれませんが、一方の電子書籍はまさに生データなのです。出版社としてお金がきちんと(かどうかは問題あるんだけど)入ってくるビジネスに主軸を置くのは当然です。そして、お金の論理で「電子書籍は売れないですから」と言う訳です。

電子書籍の世界に、紙の書籍の取次のような金融的システムはあるでしょうか? 取次の闇の部分だけを引き合いにして邪魔者扱いするのはもうやめましょう。現状はともかく、古い時代に書籍の購入者から業界を含めて、読者の利益とみんなが儲かる仕組みを彼らは構築してきたのだとも言えます。ユーザの論理は重要ですが、業界として成り立つ仕組みがないと、絵空事で終わってしまいます。iPhoneが、Apple独自の流通網App Storeによって成り立ち、そしてそれが成功の一員となったことを改めて思い出し、電子出版にも紙の出版物と同様な業界モデルを本格的に模索をしなければならない時期にあるのではないでしょうか。

電子出版のコンテンツが限られるとすれば、その理由は?

日本でもiBooksが開始されました。けっこう時間がかかったという気がしますが、iPadが出た頃の盛り上がりの期待ほどでもないという点からは、時間がかかってサービスが立ち上がったところで誰も損はしていないのかもしれません。

さて、電子出版と言ったときにいろいろなコンテンツが考えられますが、やはり、既存の書籍や雑誌等の紙媒体と同等なコンテンツというのが1つの大きなジャンルになるのは疑いもない事実です。今回は、従来型書籍の電子化において、どうしてタイトルが増えないのかという点についての1つの見方を書きます。とはいえ、今現在はかなり増えていると思いますが、「元年」と言われて2年くらいはほんとにコンテンツが増えませんでした。もちろん、リーダや販売方法などといった、技術的な問題やインフラの問題もあり、そこは多くの人の興味がそそられるところでしょう。しかしながら、契約の問題はあまり深入りされることもなく過ごされています。

紙の書籍を出版すると、筆者と出版社はいわゆる「出版契約」という契約を結びます。正しくは、執筆前に契約するのですが、まあ、そういう事例はほとんどなく、通常は筆者が書き終わって出版するまでの間に取り交わします。文面に、「原稿をいついつまでに作成し…」などと寒い条項があるのは気にせずに進めます(大笑)。また、契約を結ばなくても、一般的な出版契約が結ばれたとみなされる点についても、かなり以前に裁判があって確定しているというのを聞いた事があります。借地権みたいなルールがあるのです。その契約書は、多くの出版社は、日本書籍出版協会のヒナ型を使っています。出版に興味のある方は、ぜひともこの契約を読んでください。最近では、電子出版に対応したバージョンもあります。

この出版契約で微調整するとしたら、印税などのお金の部分と、日時といった時間的要素だけでしょう。他の部分を調整したことを聞いた事はありません。その結果、出版権という権利が出版社に設定され、出版に関する権利を独占的に有することになります。筆者、つまり著作権者は著作物なのに自分で任意の方法で公開する事は契約上できなくなります。契約上の文言は時代とともに変化していますが、独占的な権利を持つという点はずっと同じです。

以前だと、出版物の流通経路は、出版社から書店に至るものしかなかったので、独占契約をしても、他のルートがあったわけではありません。もっとも、A社よりB社の方がたくさん売ってくれそうだとか、A社の担当者と喧嘩しておざなりにされたので別の出版社に変わりたいと言っても、そう簡単には出版した本の出版社は変更できるものではありません。私の経験でも、版元の会社が解散するので別の会社から改訂版を出すようなこと少しありましたが、これはレアケースでしょう。

結果的に、紙の出版物は、出版社が電子出版化することを決定しない限りは、電子出版として出回らないのです。筆者がどんなに希望しても、出版社の決定がなされないといけません。もっとも、出版社に多大な利益をもたらす筆者の場合はそれなりに意見は通るかもしれませんが、それはごく一部の話です。大多数は関係ないという感じです。出版社も電子出版に乗り気ですが、口を揃えて言うのが「電子出版は売れない」という話です。この話は回を改めますが、安定したビジネスの枠組みから出られない出版社ほど、電子化しないということになるわけです。たぶん、この3年ほどで、出版社を中心とした出版界の枠を出てしまった人は決して少なくはありません。その理由は、電子出版に対して消極的な態度を見せた出版社に対する不満が大きいと思います。契約で権利を保持するのはもちろん必要なことですが、独占権を持ちつつ権利を行使しないというのが、現在限られたコンテンツしか電子書籍になっていない状況を生み出しているのです。

ちなみに、出版権は、一般には書籍を廃版にすると消滅されることになりますが、契約の解除をしないと、いつまでも出版社に権利は残ります。私は何度か解除の依頼を出した事がありますが、交渉とか何もなく、即座に対応してくれました。出版社に取っては廃版となると一切お金にならないものは持っていても仕方ないですもんね。でも、在庫が山積みになっていると、なかなか廃版にはなりません。資産の破棄となり、そこで損失が発生するので、実は、廃版というのは会計的な意味でも大変なことなのです。

契約と言えば、私はいくつかの書籍で、珍しく出版前に契約をしたことがあります。がんばって、決められた日付までに原稿を提出して、そこから出版されたのは半年以上経過していました。契約書では、提出後3ヶ月くらいの期間で出版社は発刊するという文言があったのです。ちょっと釈然としないのですが、紳士的に「どうなってんの?」と問い合わせて返ってきた答えがこれまた絶妙でした。原稿の受け取り日は、出版社が自由に決められると言ってきました。つまり、私が書き終わって提出した日ではなく、出版社がさて編集始めるかと決めた日が「受取日」になるというものです。契約と言ってもいい加減なものです。まあ、この出版社はあまりいい末路でもなかったのですが、こういう経緯があっただけに、申し訳ないですが、同情する気にはなれませんでした。

電子出版がはやらないとしたら、その理由は?

電子出版はそれなりに大きな市場が形成されつつあり、多くの人の注目が集まるところです。2009年頃に、Amazonがすでに電子の売り上げが上回ったという話があって、多くの人があわてたところにiPadが発売されて盛り上がり、そこから約3年、思ったほど、というか、その頃に妄想したほどは盛り上がっていません。その理由の1つが、実は牽引役だと思われているタブレット系デバイスにあるんじゃないかとも思えます。その理由を書いてみました。

電子出版をネガティブに見る人が必ず言うのは、「紙の感覚」とか「ぱらぱらめくれる」といったハードウエア的な側面です。そんなもん、電子出版物のメリットに比べたら取るに足らないというのが電子出版に対してポジティブな人の意見でしょう。ここの対立は分かるのですが、この対立点から連想されるのは、「読書体験」の違いです。大まかに言えば、紙の書籍と電子出版物はコンテンツはまったく同一なので、中身が違うということは基本的にないでしょう。もちろん、ePubだとレイアウトがいまいちなことがあるなど細かい問題はさておきます。同じ内容なのになぜ違うフィーリングになるのかという問題が「読書体験」です。

紙だからここがいいという言い方は、電子出版に対する単なるないものねだりになりますので、言い方を変えてみましょう。電子出版に欠けるものの1つは、書籍の所有感覚の違いではないかと思います。もっとも、人によってそれも違うのですが、多くの人は、昔からずっと使っている書籍があると思います。1年に1回しか見ない書籍も、毎日のように見る書籍も、そして、以前は毎日見たけど、最近は本棚に置きっぱなしという書籍もあれこれあるのですが、それぞれが、同一の厚みを持った紙の固まりとして書棚にあるわけです。見たい書籍は、自分の本棚を探します。もちろん、見当たらない場合もあるでしょう。しかし、けっこうどこに並べておいたかがだいた分かるので、久しぶりに見る本でも、本棚をざーっと見て探し当てます。書籍の背表紙の色だとか、ちょっと高さが高めだったりとか、そういう特徴は意外に覚えているものです。それを手がかりに探したりをしまし。

つまり、電子書籍は、本棚に相当するものが提供できていません。もっとも、これは提供側からすれば、「できている」という感覚だと思います。専用タブレットでも、MacでもWindowsでも、Kindoleだったら見れる。つまり、Kindleが本棚だろうという言い方ができます。iBooksは突っ込みどころ満載ですかね。いずれにしても、各社はそれぞれが本棚を提供しているつもりなんじゃないかと思います。一方、単にコンテンツだけを提供している場合もあります。いずれにしても、リアルな本棚に相当するものが今は提供できていないと言えるでしょう。

なぜか? これは明確です。タブレット各社あるいはサービス提供各社が、囲い込みを解かないからです。そのように見せない工夫は随所にあるものの、本棚のように、世界中のすべての出版物に対応したものがないわけです。各社とももちろん、アピール点はあるのですが、それは提供側の論理であり、消費者側の論理とはマッチしません。私たち読者は、あれこれ工夫をしながら、書籍コンテンツを自分で管理するわけです。しかし、大量になると安直には行きません。iBooksのように、本棚のようなグラフィックスを出しているのはどうでもいい話で、デジタル化されたコンテンツの本棚に相当するものができない限りは、過去の読書体験を上回ることはできないでしょう。言い換えれば、特定のタブレットで完結させようとしているのは各社さん見え見えなんですが、それを遣り過ぎるとそろそろ自分の首を絞め始める時期に来ているのじゃないでしょうかと考えます。

もちろん、各社のタブレットは、電子出版の立ち上がりにおいては、一般の人たちに意味が理解しやすい素材として重要な役割を果たしました。その点は功績は高いでしょう。しかし、従来の読書体験を阻害する要因にもなり始めているとも言えるのです。